こんばんは。
今日も告知です。
私の制作の礎になっているのは「歩く」という行為だ。
いつだって私は都市を歩くことを通して何かをつかもうとしてきたし、実際に様々なものをつかんで来た。
壁の写真を撮ることは、実は目的ではない。
それは手段であり口実であり、同時にとても重要な副産物だ。
しかしいつだってその目的は歩くことそのものにある。
都市を歩いているとき私はいつもただ歩き、ただ眺めている。
眺めるとき私は目の前の風景とは全然違うことを考えていたりする。
目は壁を眺め身体は都市を歩いていながらも、思考はあっちに飛びこっちに飛びと、節操も脈絡もない。
後から思い出そうとしても、まるで夢のように思考の網目からそれはすでに抜け落ちている。
残るのはただ何か感情を揺さぶる思考をしたはずだ、という夢の痕跡だけ。
ただそれが楽しくて、歩き続けている。
いつからか私は、都市を内臓のようだと感じるようになった。
その内臓は同時に鏡のようにも感じられた。
私は人間の集団が生み出した都市という内臓を眺めることにより、まるで鏡を覗き込むように、自分自身の内側に抱える個人的な迷宮を想起し、いつしかその迷宮の中を歩くことが出来るようになった。
こうした体験があるからこそ、私は建築史家、ヤン・ピーパーがその著書「迷宮」で指摘した、迷宮が都市の隠喩であるという仮説や、都市巡礼と迷宮表現がその本質の部分を共有しているという指摘がストンと腑に落ちた。
古代の人たちも自分と同じょうに都市を見て迷宮を想起し、そこに内的世界を見出していたのか、と。
その新鮮な驚きが本コレクションの出発点となっている。
よくファッションは自己表現だと言われる。
あるいはファッションは様式であり、ある特定の群れのコードを内面化したものがその本質だとも言われる。
これはどちらも正しいだろう。
なぜなら、そもそもが自己とはその人体の中において日々行われている膨大な量の認識の総体に過ぎないからだ。
当然の事ながらその中には群れとしてのコードも含まれている。
自己は群れという外部なくしては存在せず、群れは自己という内部がないと成立しえない。
そして現代においては、自己の内に潜む自我と他我のその境界線上にファッションという表現が発火する。
そこには正解などそもそも存在せず、自由である。
しかし同時に、そこには他者との協調を気にせざるを得ない対立構造が存在している。
それが鬱陶しいことも当然あるだろう。
それでもこの、現代においての自我と他我の勢力争いの最前線がファッションという場で起こっているのだという事実を、私はとても素敵なことだと感じている。
なぜなら、自我における個と公のバランスは、正解がない状態で均衡しつつ、何かしらの表現として外部に放出されるぐらいがちょうど良いと感じられる事が多々あるからだ。
個という家から全く外に出ないのも健康に悪いし、かといって公という外に出てばかりで全く家に帰らないのもまた不健全だろう。
行きて帰りしを日々ただ繰り返す。
言うは易く行うは難しである。
そして往々にして、私たちは容易に私を見失う。
私は何度も私を見失い、行き先がわからないことへの無燥感を募らせながら、自分の中の迷宮を彷徨うことを繰り返してきた。
そうした出口の見えない迷宮の中で、私は何度もファッションに、装うことに、導かれ救われた。
私は外見を装うことで逆説的に自己を再発見する事ができたのだ。
チンピラのような格好をする日が増えた。
そういう格好をすると不思議と心が安らいだ。
あーもう、なんか知らねーけどやってやんよ、という気持ちにもなれた。
外装を変化させることによる逆説的な内面の調整。
これが出来なかったら、私はいつまで自分の中を彷徨っていただろうか。
ファッションが好きで本当に良かったと心から思う。
もしかしたら私が作ることで誰かの日々を救っているかもしれない。
そうあってくれたら、と願っている。
私は私である。
これほどに自明なことはない。
しかし私たちは面白いぐらいにすぐにこれを見失う。
これからの時代においてファッションとは、自己を見失わないための装置/儀式として重要になってくるだろう。
そして迷宮図とは自己の中に深く降りてゆき、その底で自己の総体と向き合い、何かを得て帰還し、また新しい現実へ向かっていく物語の大切さを説く儀式図である。
迷宮図。
それは自己を庇護するためのお守りのような存在だと私は考えている。
いつだって私は都市を歩くことを通して何かをつかもうとしてきたし、実際に様々なものをつかんで来た。
壁の写真を撮ることは、実は目的ではない。
それは手段であり口実であり、同時にとても重要な副産物だ。
しかしいつだってその目的は歩くことそのものにある。
都市を歩いているとき私はいつもただ歩き、ただ眺めている。
眺めるとき私は目の前の風景とは全然違うことを考えていたりする。
目は壁を眺め身体は都市を歩いていながらも、思考はあっちに飛びこっちに飛びと、節操も脈絡もない。
後から思い出そうとしても、まるで夢のように思考の網目からそれはすでに抜け落ちている。
残るのはただ何か感情を揺さぶる思考をしたはずだ、という夢の痕跡だけ。
ただそれが楽しくて、歩き続けている。
いつからか私は、都市を内臓のようだと感じるようになった。
その内臓は同時に鏡のようにも感じられた。
私は人間の集団が生み出した都市という内臓を眺めることにより、まるで鏡を覗き込むように、自分自身の内側に抱える個人的な迷宮を想起し、いつしかその迷宮の中を歩くことが出来るようになった。
こうした体験があるからこそ、私は建築史家、ヤン・ピーパーがその著書「迷宮」で指摘した、迷宮が都市の隠喩であるという仮説や、都市巡礼と迷宮表現がその本質の部分を共有しているという指摘がストンと腑に落ちた。
古代の人たちも自分と同じょうに都市を見て迷宮を想起し、そこに内的世界を見出していたのか、と。
その新鮮な驚きが本コレクションの出発点となっている。
よくファッションは自己表現だと言われる。
あるいはファッションは様式であり、ある特定の群れのコードを内面化したものがその本質だとも言われる。
これはどちらも正しいだろう。
なぜなら、そもそもが自己とはその人体の中において日々行われている膨大な量の認識の総体に過ぎないからだ。
当然の事ながらその中には群れとしてのコードも含まれている。
自己は群れという外部なくしては存在せず、群れは自己という内部がないと成立しえない。
そして現代においては、自己の内に潜む自我と他我のその境界線上にファッションという表現が発火する。
そこには正解などそもそも存在せず、自由である。
しかし同時に、そこには他者との協調を気にせざるを得ない対立構造が存在している。
それが鬱陶しいことも当然あるだろう。
それでもこの、現代においての自我と他我の勢力争いの最前線がファッションという場で起こっているのだという事実を、私はとても素敵なことだと感じている。
なぜなら、自我における個と公のバランスは、正解がない状態で均衡しつつ、何かしらの表現として外部に放出されるぐらいがちょうど良いと感じられる事が多々あるからだ。
個という家から全く外に出ないのも健康に悪いし、かといって公という外に出てばかりで全く家に帰らないのもまた不健全だろう。
行きて帰りしを日々ただ繰り返す。
言うは易く行うは難しである。
そして往々にして、私たちは容易に私を見失う。
私は何度も私を見失い、行き先がわからないことへの無燥感を募らせながら、自分の中の迷宮を彷徨うことを繰り返してきた。
そうした出口の見えない迷宮の中で、私は何度もファッションに、装うことに、導かれ救われた。
私は外見を装うことで逆説的に自己を再発見する事ができたのだ。
チンピラのような格好をする日が増えた。
そういう格好をすると不思議と心が安らいだ。
あーもう、なんか知らねーけどやってやんよ、という気持ちにもなれた。
外装を変化させることによる逆説的な内面の調整。
これが出来なかったら、私はいつまで自分の中を彷徨っていただろうか。
ファッションが好きで本当に良かったと心から思う。
もしかしたら私が作ることで誰かの日々を救っているかもしれない。
そうあってくれたら、と願っている。
私は私である。
これほどに自明なことはない。
しかし私たちは面白いぐらいにすぐにこれを見失う。
これからの時代においてファッションとは、自己を見失わないための装置/儀式として重要になってくるだろう。
そして迷宮図とは自己の中に深く降りてゆき、その底で自己の総体と向き合い、何かを得て帰還し、また新しい現実へ向かっていく物語の大切さを説く儀式図である。
迷宮図。
それは自己を庇護するためのお守りのような存在だと私は考えている。
カガリユウスケ
5月に発表された「迷宮を持ち歩く」
この度は 迷宮をイメージした財布やバッグを中心に
新型のリングやスリッポンそれら全型を並べた受注会を行います。
8月10日土曜日には作家のカガリ氏もお招きし、店頭に立っていただきます。店頭に立ってお話しさせていただくのは久しぶりとのことで、滅多にない機械かと思われますので、お誘い合わせの上、たくさんのご来店心よりお待ちしております。
竹之内桂
PALETTE art alive
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